わかること
『妻の病 —レビー小体型認知症―』という
ドキュメンタリーを観る。伊勢 真一 演出作品。
弥生さんが口ずさむ「ラ・クンパルシータ」が
いつまでも耳に残った。
人を理解するって難しい。
弥生さんを介護する夫の浩市さんは言う。
「彼女が目の前の物を
どう視覚的に認知して
どういうふうに見えているんだろう。それをわかりたい。」
これは自分の考えだが
人をわかることはできないんじゃないか。
わかった気持ちになることができるだけではないか。
浩市さんに反論しているつもりはない。
ひとをわかるという行為は結局
想像の奥行の問題ではないか。相手のことをわかりたい。
相手と自分の世界観をシンクロさせたいと願う。
どこまでもどこまでもそれを追い求めても
相手が受けとる世界を追尾的に想像することでしか
わかりたいという欠落感は埋まらないのではないか。
しんと冷える夜にそんな余韻が浮かんだ。
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