麻紐。これがじつに使いよい。
うちではビニール紐は買わない。
もっぱらこれ。稲刈りが済んだ後
バインダーに中途半端な麻紐が残ってしまう。
これをそのまま置いといて来年使おうとすると
わりと劣化して切れやすくなっていることがあるので
他のいろんなことに使い始めたのがきっかけ。
玉ねぎや干し柿や種を吊るしたり
ワナの仕掛けに利用したり
野菜の支柱を組んだり
ちょっとした仕事に重宝する。
それに田んぼや畑に切りすてても
土に還るのがこの素材のすばらしさ。
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うちみたいな零細百姓は貧乏暇なし。
常に仕事がある。
今日は悠にしよっと
という日が全くと言っていいほどない。
悠々自適晴耕雨読なんていうのは
口では言ってても実際暮らしの裏側では
たいして余裕ない。
探せば何かすべきことがかならずあるって
いうことは元気な証拠で幸せでもあるかもしれない。
しかしせっかちに動き回ることが
イコール働くということなら
やっぱりぼんやりと過ごす時間のほうが
心の幸せである。
そんな忙しさにまぎれた生活のなかでも
笑顔は貧乏人の武器である。
日頃から笑顔の乏しいオレが言うのもなんだが
余裕はなくても笑顔があればいいのだ。
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確か小豆洗いという妖怪がいたなと。
毎夜小豆を洗うざらざらという音をたてて
いったいそれがなんだというのだろう。
うちでは小豆洗いならぬ大豆さらい。
毎夜篩から大豆をすくって選る音をたてている。
収穫して脱穀して風選した段階で
すべて見栄えのいい大豆だったらいいけど
なかなかそういうわけにはいかない。
くず豆とは言いたくないが
ごりごりしたのやら紫色したのやら割れたのやら
いろいろあってそれらをはじく。
でもうちではそんな彼らも
鶏たちに大喜びで食べられる。
むだにならないっていうのも豊かさのひとつ。
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やっぱりテレビいらない。
地下鉄サリン事件のとき
テレビはこぞってオウム真理教の悪を
糾弾した。それはもうすごかった。
オウム的なものすべてが
インドの民族服クルタや
サンスクリットの名前までも
悪の付属品であるかのように
非難され嘲笑されテレビの俎上で
あげつらわれた。捜査状況をいちいち
懇切丁寧に国民に報告するのも忘れなかった。
あのときの熱心さでもって
秘密保護法を糾弾しないテレビは
政権与党による国民洗脳装置となった。
踊るアホテレビに見るアホ国民同じアホなら踊らにゃ損。
まさにそんな感じで
テレビは衆愚政治の旗振り役。
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こんな楽しい仕事はないな~
とか言いながらわりと苦痛。
根つめてやってるとなんだか
頭が痛くなってくる。
単調な労働である。
もっと簡単に選る方法ないのかな。
うちでは白いトレーの上に
ごみ混じりの大豆をひとつかみ載せて
トレーを少し傾ける。ちょっとゆすって
転がってきた大豆の中から変なやつを取り除く。
甚だ原始的な繰り返し作業。
いったん始めるとなかなか終われない。
中断することに罪悪感のような名残惜しいような
不完全燃焼的な気分がなぜか湧く。
昔の人もこんなことしてたのだろうか。
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先週までなかなか乾かなくて
場所をふさいでいた彼らを
ようやく裸にした。
ほどよく乾かないと
叩いても殻がはじけない。うちには
ビニールハウスなんぞという便利な部屋がないので
シートに広げた大豆を夜露や雨に
濡らさない養生が日課になる。
初めのうちは棒で枝についた鞘を
叩いていたのだが手間ばかりで
らちあかないので
足踏み脱穀機を使ったらさすがに効率よし。
毎年のことだが
自家味噌用に10kgほどの大豆を育てるのも
けっこう大変なのである。まぁお百姓仕事は
なんでも大変なのであるが・・。
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