もう何年か前ウーファーとしてうちに訪れた
シャンという名のカナダ人の大男。
身長が190cm以上靴のサイズ30cm以上あって
体つきもたくましい。
その彼がある日の夕食時に
うちの食事を咎める口調で言う。
アフリカではあなたたちのようなこんな贅沢はできない人が
たくさんいる。あなたたちは
よく酒を飲み冷蔵庫には食べ物がいっぱいあって
テーブルには毎晩ごちそうがならぶ。
こんな生活はまちがっているんじゃないですか?
とまあだいたいこんな趣旨の話。シャンちょっと待て。
そうオレは言った。酒はともかくこのテーブルにある
ご飯も野菜もだいたいがうちの畑のもの。
うちでは日々食べるものはこだわると決めている。
この食事を今以上に質素にしたらアフリカの子どもたちが
救われるのかい?ひるがえってシャンはなぜここにいるの?
先進国のお金持って気ままな旅をして裕福な日本に来ている。
そんな人からオレたちの暮らしに文句言われたくない。
自分たちは遠くよりも足元が大事という信念で生きているだけだ。
とそんな口論になった。でも翌日になると
昨晩の口論ですっきりした自分がいた。シャンも気にしてない。
納得しなくてもいい。その後も別の形でこの話題は続く。
それはそれ。議論はいいじゃないか。外国からくる人々の
このあっけらかんとした態度が気に入った。
ヨーロッパの国々が移民を大勢受け入れる寛容さに
シャンを思い出した。
個人的に注意していることがある。
それは「ぜったい」という言葉。
絶対出来んとか絶対そうなるとか
絶対が前に付くとその言辞は
ことごとく疑わしくなる。絶対とは
他のものとは比較できないほど完全に
という意味にとれる。誰にも文句は言わせない
議論の余地ないという対話拒否の枕言葉みたいだ。
とか言いつつも
会話のなかでついついゼッタイと口走ってしまいそうになる。
かの原発はどうだっただろう。絶対安全だったか。
この世界に絶対的に完璧なものはない。
完璧や絶対を求める精神は往々にして権力やカネがらみ。
地球という生身の存在じたいが
移ろいやすくはかないものだ。
微妙な誤差と非力さを噛みしめながら生きていきたい。
沖縄のカラカラみたい。いつか壊しそうな曲線美に魅かれた。
以前友人の形見分けでいただいた地鶏。
名古屋コーチンという有名な品種の鶏がいる。
雌2羽雄1羽つがいでもらったのだが
この雄が曲者。ふつうの鶏の雄よりひとまわりでかい。
餌やりや水替えのとき必ず襲いかかってくる。
ほんとまじで襲いかかるという表現がふさわしい。
常に彼を意識し背後に回りこまれないように
用心して部屋に入らないとやられる。
世話人が入ってくるとよそを向いて
俺はあんたなんて知らないよー
という無関心的そぶりをとる。安心していると
突然こちらに振り向き猛ダッシュで跳び蹴りを食らわせてくる。
蹴爪をぐさっと刺すのではなく
蹴爪を使ってばちばちばちと連続往復ビンタ
+爪先剃刀攻撃である。
これを立ち姿勢で食らうとよろけ膝に青あざができる。
屈んだ拍子にやられると顔面流血事件になる。
ひっつかまえて押さえつけるとタスケテーと鳴く。
気性の荒い鶏のボスを甘く見てはいけない。
鶏舎の入り口
戸の上にコガタスズメバチが巣を作る。
彼らは8月上旬頃やってきて
気がついたときにはバレーボールより
一回り小さいくらいの巣ができていた。
その入り口をはなが出入りしてて見事刺された。
以前オレも石垣に巣作ったオオスズメバチを
駆除してやろうと夜重装備で近づいたら
逆襲された。あの痛みは尋常じゃない。
コガタスズメバチはそれほど激しい突撃もないし
オオスズメバチに比べたら毒性もたいしたことない。
それでもやはり恐い。不便だし草刈りもできない。
この2週間以上そのコスズメバチの巣を
長い竹の先で叩き落とし続けている。
落としても落としても翌日には外見が元通りになっている。
営巣場所を替えようとしない。
彼らに言葉が通じればいいのだが。
しとしと雨とぬかるみのなか
豚を一頭檻に入れる。
明朝その豚をと畜に連れて行くことが決まっているので
なんとしても檻の中に入ってもらいたい。
うちは完全放牧なので
この檻に入れるという仕事が難しい。
放牧養豚の師匠である氏本さんは
豚が自分で入っていくように段取りする
そうおっしゃるがこれもなかなか難しい。
入れたい人間と入りたくない豚との駆け引き。
豚は仲間意識がとても強いので
強引に入れようとすると母豚兄弟豚が興奮して
突進してくる。無理強いすると豚もストレスで参ってしまう。
手を尽くしておよそ2時間ようやく檻に入ってくれた。
人間の自分勝手な都合でごめんね。ぶー。