たびたびイノシシの話題で申しわけない。
べつに自己満悦なわけじゃない。
ただ野生の獣を狩るという行為が
いったいどういうことか
自分自身整理つかないので
文章を紡いでどこかで折り合いたいのである。
自分が殺したイノシシを弔いたい
と言い換えてもいい。
仕留める刹那の興奮もはずかしい。
イノシシは元々この周防大島に存在しなかった動物
とはいえ現在はこの島の山で生き成長する。
既にここで世代をつなぎおよそ10年。
悠然とこの島の地を歩く。ある種の神。
オレは神の化身を殺しているのとおなじ。
オマエにこの偉大な神の化身を殺すに足る資格があるか。
そう問われているような気がする。
今の自分には応える術がない。畏れ敬いながら狩る。
今のところそう謙虚に構えるしか能がない。
第1と第3土曜日恒例のマルシェ。久賀の生涯学習のむら。
自分なりの言葉にかんして基本的考え。
カタカナ語をなるべく排すると決めている。
なのでマルシェとかファーマーズマーケットとか
そういう横文字呼び方に対して
微妙に距離感がある。ほんとは農家土曜市とかお百姓市場とか
そんな日本語でいいと感じる。ただまぁマルシェという仏語は
短くて呼び易くお洒落っぽい名前ではある。
それと似たようなこだわりかもしれないが
うちで育てた野菜などを
オーガニックとか有機野菜とか無農薬とか
ことさら強調するのもダサい気がする。
そもそもこれからの時代
できるかぎり農薬や化学肥料に頼らない農を営みたい
人々が主流になっていくのは間違いない。断定。
それがあたりまえなんだから
わざわざあたりまえなことを主張する必要もない。
お客さんに尋ねられたら
野菜を無農薬で育てるなんてそんな難しいことじゃない
といばって言いたい。
かぐや姫に登場する竹取の翁は
取った竹をよろずのことに使うという。
おそらく翁は竹細工職人だったのではないか。
そんな高尚な目的で竹を取ってみたいが
今回は稲のはぜ掛けのため。
淡竹がちょうどいい。
山はどこも竹ばかりなので入手するのは困らない。
でもコンバインで刈れば竹なんぞ取る必要もないわけで
余計な労力にちがいない。
じゃあなんでわざわざはぜ掛けしたいのか。
理由はあれこれおもいつくがつまるところ
遊びなのだ。お百姓仕事はなべて遊びの延長。
遊びといっても趣味という意味ではなく
時間をもてあましているわけでもない。
アソビとは精神的な余裕のこと。たとえば
車のアクセルについて教習所で習う。
アクセル踏むときアソビのない車は危ないですよと。
はぜ掛けするため山で竹を刈るのは
労働の踊り場。