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2015年2月

2015年2月18日 (水)

しし鍋

うちの冬の定番鍋はシシ鍋

と決めているのはわたくしだけで

相方はそうではないらしい。

そもそも冷凍庫の場所をしし肉がかなり占領している。

なのでこっちは単純に

肉類は一切購入禁止のお触れをだすのだが

相方はそれを黙殺してたまに肉を買ってくるので

激しい口論になる。彼女の言い分は

鍋に入れるお肉がきっちりスライスされていないと

気に食わない。それとできるなら

鍋物には獣くさくないお肉を使いたいなどと

まったくもって贅沢至極。

わたくしの理想とする日々の食と

そりが合わないことがしばしばあるのだった。

たかだか鍋の具の話なのだが互いに譲らない。

Dsc01296 今回はなんとか妥協してくれたらしい。

ササゲ豆味噌で味付け。大地の恵みに感謝。

2015年2月17日 (火)

雨が強く降りはじめたと思えば

お陽さまが照って暖かくなり

また空が灰色にくもって雨が降りだす。

めまぐるしく空模様が変わる

そんな一日だった。

天気しだいで晴耕雨読というほど

悠々とした暮らし

でもなくてあれこれと労働に精を出す。

こんなふうに歳をとるのもわるくないが・・。

Img00694 夕方二度虹を見る。

2015年2月16日 (月)

素直な大衆

大衆という言葉は

権力者が市民を軽んじて指す言葉である。

市民とは自らの立ち位置を

政治的経済的に自覚した国民。

ただ往々にして

民主主義という白黒はっきりさせないシステムでは

大衆は温存される。

大衆は支配の傘の下で整列させられていても気付かない。

政治的な力によって旅券を取り上げられる新聞記者

がどんなにその不条理を訴えても大衆の懐には響かない。

大衆はたとえ矛盾でも信じたいものだけを信じる。

この食べ物は完全栄養食ですとテレビで

大々的に取り上げられれば信じるし

この酒ほどうまい酒はないとネット上で

激流になればやっぱり信じる。

大衆は一度手になじんだ物を手放すのが恐い。

選挙とタレントと有名人をごちゃまぜでとらえて

彼らの言葉の表裏を分析できない。

過半数の市民が大衆の存在を外から見るなら

大衆はいなくなるだろう。そんな

ネオデモクラシー時代がいつか訪れるだろうか。

Dsc01179 岩国駅付近で撮った目。

2015年2月15日 (日)

味噌汁

朝目が覚めてなにが愉しみかって

お味噌汁を頂くことでございます。

起床してすぐに山へ鶏の世話や畑の収穫。

ひと働きしてうちに帰る。

それから人間の朝めし。

しみじみとすする。具は豆腐わかめ

ねぎ大根しいたけ他季節の葉物。

酵母が活きている味噌の味をいちいち

形容しようがない。

手前味噌をこしらえた本人にしかわからない。

すべて己が納得済みの味である。

たかだか手前味噌ではあるがこの味噌汁のおかげで

やっと脳みそが覚醒する。

Dsc01251 黒米ごはん味噌汁めだま焼白菜一夜漬け。

2015年2月14日 (土)

焼き芋

労働の合間に焚火で焼き芋。

ぷーんと甘い香りが漂ってくるともう

目はその場所ばかりを注視してしまう。

うちの焚火焼き芋の手順は

芋をたわしでよく洗って封筒に入れる。

それを水で濡らした後に銀紙でくるんでさらに

それを新聞紙に包んで湿らせる。

その状態で灰の奥に突っこむ。

ここ肝心なところだが

激しく燃えさかっている炎の下ではなくて

火の中心部からほんの少し離れた

灰の下に芋を据える。灰で覆う。

かじかむ手でほっこりと焼けた芋を握るとき

しぜんに顔がゆるむんですよねこれが。

Dsc01291

追記

おいしそうに焼けた だい珠玉の 紫芋 の画像を消してしまい

だいに 大怒られした はなですweep

代わりに こちらの 画像をどうぞ。

道の駅サザンセトとうわにて 絶賛発売中happy01

結局は 宣伝?ごめんなさいbleah

 

2015年2月13日 (金)

竹を刈る

鶏舎からの見晴らしよくするために

この頃暇さえあれば

竹刈りに精を出す。

急勾配の段々畑はその昔水田だったらしいが

今は見る影もない。

ところどころ陥没して

石垣もことごとく崩れてただの丘陵に見える。

100年前の日本人が文字通り必死になって

切り拓いた棚田は徐々に自然に還りつつある。

竹を刈った跡地に

八重の桜でも植えてみようかと考えている。

Dsc01807 今鶏舎が建っている場所もかつて竹に覆われていた。

2015年2月12日 (木)

かぼちゃスープ

ふだんは昼メシはとらない。

間食に市販のお菓子など頂く習慣もない。

昼に食事をすると眠くなったり

戸外に出て働くのがおっくうになりそうで

遅い朝食と遅い夕食が日課である。

がたまに休憩したときおやつを頂いてちょっと後悔する。

自家製食パン一切れ口に入れると

止まらなくなりもう一切れもう一切れと

きりがない。一斤お腹にいれてしまいそうになる。

そんな誘惑に負けそうな

昼下がりの午後

薪ストーブで蒸し焼きしたバターナッツから作った

あつあつポタージュスープ。

Dsc01270 かぼちゃ達もそろそろ限界。

2015年2月11日 (水)

ごちそう

日常の間隙にひそむ

オレにとってのごちそうとは

いったい何だろう。と考えてみた。

『アメリ』のオドレイ・トトゥではないが・・。

薪ストーブの燠がぱちぱちとはぜる音。

小春日の陽だまりで体をまるめて昼寝。

ごろごろと甘えた猫ののどぼとけの触感。

小汚い酒場で友と熱く語り合う純真さ。

真夏に街を歩く女の子の白い肌のまぶしさ。

農作業で疲れ果てて眠る前のまどろみ。

めったに口に入らない十割そばをすする時ののどごし。

なにげなく曲がった路地で偶然見つけた古本屋。

せいぜいそんなこと。気分の贅沢。

人間ってこんなにささいな空想で

その情景を頭のなかで再現できる。幸せは目の前にある。

Dsc01264 海鼠と大根擂り。喉が鳴る。

2015年2月10日 (火)

わかること

『妻の病 —レビー小体型認知症―』という

ドキュメンタリーを観る。伊勢 真一 演出作品。

弥生さんが口ずさむ「ラ・クンパルシータ」が

いつまでも耳に残った。

人を理解するって難しい。

弥生さんを介護する夫の浩市さんは言う。

「彼女が目の前の物を

どう視覚的に認知して

どういうふうに見えているんだろう。それをわかりたい。」

これは自分の考えだが

人をわかることはできないんじゃないか。

わかった気持ちになることができるだけではないか。

浩市さんに反論しているつもりはない。

ひとをわかるという行為は結局

想像の奥行の問題ではないか。相手のことをわかりたい。

相手と自分の世界観をシンクロさせたいと願う。

どこまでもどこまでもそれを追い求めても

相手が受けとる世界を追尾的に想像することでしか

わかりたいという欠落感は埋まらないのではないか。

しんと冷える夜にそんな余韻が浮かんだ。

A_001

2015年2月 9日 (月)

豆乳鍋

底冷えする晩のメシはたいがい鍋

と決めている。

野菜類は畑に行けば

ふんだんにあるし

肉類を所望であれば

シシ肉やうちの鶏肉が冷凍してある。

鍋以外に検討の余地なしというところでしょう。

今晩は豆乳鍋。前回へた打って乳成分が分離したので

仕込みに胡麻油と豆乳を合わせて乳化させ

さらに水溶き片栗粉を加えて分離を防ぐ。

シメにおじやで温まる。

わたしたちの血や肉にかわる命に感謝。

いくら感謝してもしすぎることはない。

Dsc01261 ごっつぁんです。