労働の合間に焚火で焼き芋。
ぷーんと甘い香りが漂ってくるともう
目はその場所ばかりを注視してしまう。
うちの焚火焼き芋の手順は
芋をたわしでよく洗って封筒に入れる。
それを水で濡らした後に銀紙でくるんでさらに
それを新聞紙に包んで湿らせる。
その状態で灰の奥に突っこむ。
ここ肝心なところだが
激しく燃えさかっている炎の下ではなくて
火の中心部からほんの少し離れた
灰の下に芋を据える。灰で覆う。
かじかむ手でほっこりと焼けた芋を握るとき
しぜんに顔がゆるむんですよねこれが。
追記
おいしそうに焼けた だい珠玉の 紫芋 の画像を消してしまい
だいに 大怒られした はなです。
代わりに こちらの 画像をどうぞ。
道の駅サザンセトとうわにて 絶賛発売中。
結局は 宣伝?ごめんなさい。
日常の間隙にひそむ
オレにとってのごちそうとは
いったい何だろう。と考えてみた。
『アメリ』のオドレイ・トトゥではないが・・。
薪ストーブの燠がぱちぱちとはぜる音。
小春日の陽だまりで体をまるめて昼寝。
ごろごろと甘えた猫ののどぼとけの触感。
小汚い酒場で友と熱く語り合う純真さ。
真夏に街を歩く女の子の白い肌のまぶしさ。
農作業で疲れ果てて眠る前のまどろみ。
めったに口に入らない十割そばをすする時ののどごし。
なにげなく曲がった路地で偶然見つけた古本屋。
せいぜいそんなこと。気分の贅沢。
人間ってこんなにささいな空想で
その情景を頭のなかで再現できる。幸せは目の前にある。
『妻の病 —レビー小体型認知症―』という
ドキュメンタリーを観る。伊勢 真一 演出作品。
弥生さんが口ずさむ「ラ・クンパルシータ」が
いつまでも耳に残った。
人を理解するって難しい。
弥生さんを介護する夫の浩市さんは言う。
「彼女が目の前の物を
どう視覚的に認知して
どういうふうに見えているんだろう。それをわかりたい。」
これは自分の考えだが
人をわかることはできないんじゃないか。
わかった気持ちになることができるだけではないか。
浩市さんに反論しているつもりはない。
ひとをわかるという行為は結局
想像の奥行の問題ではないか。相手のことをわかりたい。
相手と自分の世界観をシンクロさせたいと願う。
どこまでもどこまでもそれを追い求めても
相手が受けとる世界を追尾的に想像することでしか
わかりたいという欠落感は埋まらないのではないか。
しんと冷える夜にそんな余韻が浮かんだ。
サラリーマンだった頃
お金が生活の目盛のようだった。
とにかく月々の給料の中から
家賃食費光熱費交際費雑費等々
目減りしていく。そこになんの疑いもなかった。
周防大島に移りお百姓をはじめて
世の中にはお金と引き換えにできない恵み
によって生活が成り立つという
展望がひろがった。
ご近所や友人たちからいろんな
旬の食べ物を頂いたり私たちもお返ししたり
菜っ葉でも米でも
耕作する土さえあればほとんどお金はかからない。
暮らしの中でお金に換算する物の割合が
極端に減ったにもかかわらずサラリーマン時代より
豊かな気持ちで生きている。ふと気づく。
放射能汚染で失われた福島及び周辺の大地は
お金では計ることができないという現実を。